2012年5月31日木曜日

2クール目に突入

化学療法の2クール目になった。

午後から雨が降るとの事で洗濯物などを急いで取り込み、
病院へ向かう。

診察と点滴を受けに行く。

点滴中は売店に行くなど可能らしいので事前にコンビニで
お茶を買って行く。

病院に到着。

受付を済ませ、採血をする。


午後からの場合は、採血室に通され、採血。


アトピー性皮膚炎の私は血管が見えにくいらしいので、時間が
かかる。
採血室の看護師ならスペシャリストで大丈夫そうだが、見つからない
らしく、右手の甲に針を刺される。
化学療法の看護師の方がプロだからと言われた。


採血を済ませ、外来待ち合いで診察を待つ。


主治医Bの診察室が変わっていた。

と言ってもPCが置いてあるだけで誰がいつどこに座っても大丈夫そうな
部屋だ。

血液検査の結果は、ほぼ問題ないそうだ。


ここでトラブル。
と言っても医師のミスだかシステムのミスかわからないが、今日の点滴薬の
情報が入力されてなかったようだ。


急いで主治医Bが薬の手配をし、化学療法室へ向かう。


点滴の準備をする。
採血室の看護師は、化学療法の看護師の方が針を刺すのはプロだからとの事
だったが、あっさりと違う事を思い知る。

と言っても血管を探すのが難しいらしい。

今度は左手首に針を刺された。
以前、健康診断の際に聞いた事あるのだが、心臓から離れるほど針を刺すのが
痛いらしい。血管の太さの問題か。
さっきの手の甲は痛くなかったが、今度はズキズキして痛かった。


針が刺さっているかどうかを医師に確認してもらうらしい。
業界用語なのか知らないが、これを「ラインの確認」と言う。


主治医が来た。
さっきの薬の手配ミスが気に入らなかったのか。
「隠れてたからわかんねーじゃねえか」と冗談とも本気ともつかないテンションで
来た。
きっと生真面目なのだろう。
冗談を上手に言えないタイプだと思う。

同じ外科医を見ていても主治医Bは独特な人みたいなのが伝わってくる。
しかし腹腔鏡手術をできるという事は医師のスキルとしては低くない証でもあるのだ。


さて、2度目のエルプラット投入だ。


前回は40分ほどすると針の刺さっている箇所付近がしびれてきたが、本やiPadなどを
持ち込んだが、失敗。


化学療法室は、Wi-Fiとソフトバンクの電話が圏外だった。
これは思わぬ誤算。


iPadでRSSチェックなどをしようと思っていたのに。


仕方がないので本を読んだりインポートしている動画を見たりしていた。
もしもの時用に本は持ち込んでいた。


点滴の方は、ほぼ予定通りに終了。


ここでゼローダなどの薬を手配する事になった。
病院なので処方され、そのまま出てくるかと思ったが、もう18:00を
まわっていた為、院外の薬局で購入してほしいと言われた。

思い当たる薬剤師が常駐する近所のドラッグストアがあるので、電話して確認したら
ゼローダは在庫が足りなくて本日渡せる分だけ渡して残りは明日以降という話にした。


病院を出る。
高額治療になるので、5万弱だった。
自動車税よりも高い。

外に出てみると雨が降ってきた。

副作用の一つとして冷たいものに触れるとしびれる。
雨があたる度にしびれながら駐車場に向かう。

雨が痛いなんて経験はあるが、雨に当たってしびれるなんて経験は初めてだ。
変に前向きなのか、面白いなと思いながら歩いた。


車でドラッグストアに向かう。

薬剤師Sに処方箋を渡す。
電話してから私が赴くまでの間にゼローダは手配したそうだ。
後日に受け取りに行く必要はなくなった。


ここに来る間に両腕が少ししびれている。
よく車を運転したなと自分で感心するくらいだ。


処方された薬名で薬剤師は病気を察したのだろうか。
妙に親身に説明をしてくれる。
それとも2万弱の薬代、顧客単価が高いからニンマリなのかという想像も
できなくはないが、良い方に受け取る。


帰宅。


まぶたが痙攣してる。
前回もそうだった。
調べても副作用としては報告されてないようだ。
鏡を見ても痙攣しているのは確認できないが、感覚として痙攣している。


手の動きも鈍い。
寝る間際にはペンを掴みにくくなった。


頭がボーッとしているのは疲れなのか副作用なのかわからない。


看護師や薬剤師の話では、3〜4クール目からキツくなってくるらしい。
私の1回ゼローダが6錠というのは多いらしいが、副作用がキツくないから
量が多いそうだ。

副作用の状況に応じて減らしていき、それでもという時は止めるそうだ。

大切なのはストレスをためずに半年間やり切る事だそうだ。

2012年5月30日水曜日

ごぼう茶を飲む

ここ1〜2ヶ月だろうか。

ごぼう茶を飲んでいる。

母から飲むように言われてだ。

今も飲みながらブログを更新してる。

そもそもはテレビで知ってました。
放送した日はTwitterでも話題になっていた気がします。



私の場合は、免疫力を高めるという目的で飲んでいる。


私自身の効能は定かではない。
まだ1〜2ヶ月くらいしか経ってないからだ。


お通じが良くなるようだが、私の場合は下剤も飲んでいる為よくわからない。


時間を経ないと何とも言えない。
ただ、お茶と言ってもカフェインが入っているわけではなさそうだ。
夜飲んでも大丈夫そうだ。
母が言うには朝飲むのが良いと言っていた。


本を読まない母が珍しく本を買って読んでいたようです。
私も進められて軽く目を通すくらいの感じで読みました。

ゴボウ茶を飲むと20歳若返る! Dr.ナグモの奇跡の若返り術



確かにこの方、お若いです。
動画を見ると「そんなカッコで畑にいるシーン撮らなくていいだろう」と
言うくらい。


若く見えるのは痩せた事もあるでしょうけど、頭髪や服装、それに元の顔の
作りや喋り方もあるので、「お茶飲みゃいいんだ」と思い込まないのが大事
です。


若く見えるのは、さておいて。


この方、ガンの医師という事でガンの予防に効くというのは説得力があります。
抗がん剤治療中で免疫力が落ちているであろう私には免疫力が高まるのであれば
ありがたいくらいだ。

味は、ご多分に漏れず「ごぼう」なので、おいしいもまずいもない。
ごぼうが嫌いだという人はあまり聞きませんね。

著書の方では実際のごぼうから作り方がある。
我が家では、ごぼうから作るわけではなく、市販の茶葉を購入してきているようだ。







さあ、みんなで飲もう!・・・とは言わないが、ご興味のある方や以前テレビで見て
思い出した方はチェックされてみてはいかがでしょうか。


ちなみに、ごぼうをそのまま食べると繊維ものなので、私みたいに胃腸を患っている
方の場合、傷つける場合があるそうです。
今は特に言われてませんが、最初の入院をした時に消化器科の医師から胃腸を傷つける
から繊維ものは控えてくださいと言われました。


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2012年5月29日火曜日

副作用〜骨髄抑制

抗がん剤を開始してから3週間が経過しようとしている。

特に深刻な副作用はない。
むしろ副作用が目立たない事が薬の効力を疑ってしまうほどだ。
と言っても半年も続けていくのだから最初からあると困る。

3週間のうちの3週目は、休薬期間となる。

この時期に気がついたのだが、これが副作用かどうかはわからない。
実際に服用していない時期の事だから。

私はアトピー性皮膚炎こともあり、肌が弱い。

手の指先のあたりにささくれができるので、はがそうとする。
すると、必要以上に皮が剥けてしまう。
もっとも必要以上に剥ける事は以前もよくあった。

その回復が遅い感じがするのだ。

かさぶたを剥がしても吹き出物を潰しても同じだ。


既述の症状がどこまで当てはまるかは素人判断できないが、抗がん剤の
副作用の一つとして「骨髄抑制」がある。
赤血球や白血球などの血液成分のバランスが崩れるようだ。


いわゆる免疫力の低下だ。

くどいようだが強調しておきたいのだが、私の症状がどこまで適合するかは
わからない。


ただ、骨髄抑制が起きると免疫力が下がるという事は、風邪を引きやすいとか
血が出て止まらないと言った減少が起きる事になる。
素人考えでは、皮膚の回復が遅いのも骨髄抑制の一つではないかと思う。
もちろん、ただの憶測。


骨髄抑制は、厄介な問題だと思う。
風邪を引いて治りにくいという事は、抗がん剤治療に影響する。


熱が下がらなかったりすると抗がん剤を止めざるを得ないのではないかと思う。
そうなると、治療が遅れてガンが進行するのではないか。


また合併症や別の病気を引き起こす事も考えられる。


赤血球が減った場合には薬があり、対処が可能らしい。

白血球や血小板が減ると厄介のようだ。
これは看護師より説明を受けた。


免疫力が下がっている状態では、予防をするのがベストだ。
ウィルスを頂いてしまうと抵抗力がないのだから。


人ごみに極力行かない事と帰宅時の手洗いとうがいをやる事だ。


病院に行くシグナルとしては、
熱が38度以上出る
との事だ。


心配な人や低体温の人は、37度以上でも構わないとの事だった。


熱が38度出たら我慢する事はない。

2012年5月28日月曜日

しこりのような

夕方近くになり、そろそろ風呂の準備でもしようかと
思った。

何気なくミゾオチのあたりをさすった時にしこりのような
ふくらみを感じた。

ガンを宣告されてから血の気が引く思いをする事が何度もあるが、
この時もそうだった。

転移?

まさか手術したばかりで検査もしているのに、そんなはずはない。

とりあえずネットで調べてみる。

大きく分けて2つの可能性があるらしい。

一つは「」。
剣状突起(けんじょうとっき)と言うらしい。

私の場合、昨年の12月より減量をして今回の入院などを経て25kg
落としている。埋もれていた骨が出てきたのも納得できる。

これであれば、誰でもある軟骨なので心配は不要だ。


もう一つは「腫瘍
特に悪性であれば、肝臓ガンの可能性があるとの事。

これはゾッとする。
大腸ガンからの多臓器転移は、肺と肝臓に多いからである。

ましてリンパ節転移があり、多臓器へ転移していても不思議ではないと
言われているのだから疑ってしまう。


素人判断は、ここまでにしておく。


病院へ電話。

経緯を説明する。
夕方で人員の入れ替えをしているらしく、電話で10分くらい話した。


急患で行く事になり、車を病院へ走らせる。


17:00だったが、駐車場は案外と車が多い。
見舞客だろうか。


受付をすませ、血圧をはかる。
平常だ。
自宅で確認すると低めの数値が出るのだが。


電話では時間がかかると言われたが、意外と早く名前を呼ばれる。


医師を見ると、学生ではないのかと思うくらい若い女性だった。
場所が病院でなければ歓迎するところが、さすがに診察はベテランに
してほしい気分だ。

以前、喘息の発作が起き、別の病院に急患で行った時にも若い女性の
医師だったが、症状を説明すると本を取り出して調べ始める。
患者としては「コイツ本当にプロなのか?」と思い、不安になってしまう。

その時の事が頭をよぎり、不安になった。


今回は喘息とは事態が全然違うのだ。


そうは言っても文句を言っている場合ではない。

病状を説明。

触診される。

女医は首をかしげる。

「少々お待ちください」と言われる。

おいおい。


少しして登場したのが、3月の急患で私を診察した医師だ。


また説明をしたところ、剣状突起である可能性が非常に高いとの事。


腫瘍であれば、もう少し固いそうだ。
しかも今すぐ何かをできるわけでもないらしい。

検査をする事もなく、もちろん薬も出ず終了。


予約した外来で同じように話してもらえますかと言われた。


結果的には御の字と言うべきだろう。


今回の病気では「大丈夫だろう」と思っていて予想を超えて進行している
との事だったのだから不安で行って問題ないでしょうと言われたのだから。


帰路につく。


女医が明るい声で「お大事にどうぞ」と言っていた。


ただ、このブログをご覧になっている方、特に私と同じように患っている方に
申し上げたい。

おかしいと思ったら病院へ行った方が良いです。
結果として問題なければ、それで良いのです。


私も素人判断のギリギリと思えるところまでは自分で調べましたが、最終的には
プロに診察してもらう選択をしました。予備知識を入れてから診察に行くためでも
あります。

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2012年5月27日日曜日

副作用〜末梢神経障害

自宅での療養生活。

もうすぐ術後1ヶ月経過しようとしているが、
体調は良いと思う。


副作用と言えば、抹消神経障害だろうか。

手足や口のまわりのしびれやチクチクする感じ、
喉がしめつけられる感じが代表的な症状だ。


いつも飲んでいるゼローダではなく、点滴のエルプラットの
特徴的な副作用であるようだ。
点滴してから1週間くらい続く事になるので、その効力たるや
恐ろしいものでもある。


冷たいものを触ったり、飲食すると違和感がある。


洗濯物を干そうとして触ると指先がピリピリする。
ゼローダを飲もうとして水を飲むと喉の奥に異物がある感じが
する。


あとは早朝の散歩だろうか。
まだ肌寒い中を歩いていると指先をしびれる。
動かなくなる感じがするのだが、これの関連性はわからない。
帰宅し、お湯で手を洗って動くようになるのを待つだけ。


退院して4日くらいで症状は治まり、氷水を飲んでも大丈夫に
なるが、また点滴をやると症状が出ると思うと油断できない。


前にも述べたかもしれないが、車乗る時の静電気に比べれば
耐えられないほどではない。
ピリピリと言っても正座して足がしびれる程度の感覚だ。


ただ、冬は大変そうだ。
私の場合、10月くらいには終了する予定だから延長しない事を
願うのみ。



2012年5月26日土曜日

便秘に苦しむ

退院した日から苦しんだのは、何と言っても便秘。

今回の抗がん剤では、一番の悩みの種になりました。
入院してる時も何度となく症状を報告したにも関わらず、
その場で薬を処方はしてもらえなかった。

たかが便秘、されど便秘である。

しかも出そうで出ないのが非常に気持ち悪い。
身体的にも精神的にも、だ。

マグラックスという下剤を退院時に処方してもらった。

飲んでも即効性は、とりあえずない。


便意はあるのに出て来ない。


抗がん剤を服用している都合で力むなと言われているし、
痔が切れると別の問題が発生する事になる。

私は昔から牛乳を飲むとお腹がユルくなるので飲んだ。



この牛乳が一番私には効果があるのでガン宣告されてからは
よく飲んでいる。コップ2杯飲むと本当によく出るので助かる。
勿論、味もおいしい。

脂肪がどうこうって話もあるが、日々の排泄に比べたら微々たる
もの。


 退院した次の日の午後。


マグラックスと牛乳の相乗効果で便が出ました。


お食事中の方がご覧になっていたら非常に申し訳ないが、
太いのが出た。


かなりスッキリした。


さほど抗がん剤の副作用もないし、本当に病人なのか不思議な
くらいだ。

2012年5月25日金曜日

抗がん剤治療入院 5日目

退院が決まった。
血液検査に異常なし。


早速、帰る支度をする。
退院の手続きは午前中にしないといけない規則なので昼には
帰宅できる。


迎えに来るはずの母は来れない。
職場の上司の息子がクローン病にかかり、悪化して他の病院に
搬送されたそうだ。
まだ20代なのに。

それを言えば、私も「まだ30代なのに」という事になる。


祖父から電話がかかってきて車で迎えに行こうかと言われたが、
断った。
さすがに90代の祖父に2回も迎えにきてもらうのは気が引ける。
負担は、かけたくない。
祖父としても落ち着かない気持ちは伝わってきたが。


一人で帰宅準備を進める。


母は来れないと言ったが、昨晩メガネが壊れてしまい、替えを
持って来てもらうついでに荷物を少し持って帰ってもらった。


意外と一人で持って帰れるくらいの荷物ですんだ。
母には「荷物は一人で大丈夫」なんて言っていたが、さすがにレンズが
落ちたメガネで一人では帰れない。

申し訳ないが、来てもらった。


他にも退院が決まった患者いるようで隣の部屋ではパジャマに帽子をした
だけの格好で帰ろうとして看護師に「どこ行くんですか?」と呼び止められて
いた。
笑ってしまいそうになるが、それだけ入院生活は窮屈だ。いろいろと制限されて
いる為だ。

そういえば、年寄りの患者は看護師にやたらと甘えていると言うかワガママな
印象がある。
単に若い女性と話したいのか、世話なんか普段してもらえないから甘えているのか
よくわからないが、会話を聞いている限りではワガママな印象だ。


次回の外来の予定も決まり、薬も処方され、退院の書類を書いた。


これで帰宅できる。


念のために売店で菓子パンを買って帰路につく。


母からはタクシーで帰れと言われていたが、歩きで帰った。
ワンメーターの距離のせいかタクシーは動いてくれない。

一度、病院から乗った事あるが、降りる時に運転手から溜め息をつかれた。
まあ、歩合でやっている仕事だから仕方ないが、タクシー会社名は控えておく。
ちなみに家から病院に行く時に電話しても来てもらえない。母はそう言っていた。


歩いて帰宅。
風が強かった。

ゆっくり歩いた。

今までの退院の中では体がキツかったかもしれない。

家に着いたが、やる事がある。

まず体温計と血圧計を買わなければならない。
壊れたメガネを修理したかったが、後日にする。

抗がん剤治療の記録を付ける事になり、体温と血圧、排便回数や副作用などを
残して外来の時に主治医に見せないといけない。

正直、車を運転する気にはなれなかったが、一人しかいないので仕方がない。

近くの家電量販店に行って買ってきた。

薬を飲むのも注意しないといけない。
入院してる時は看護師が持ってきてくれた分だけ飲めばいいが、今後は自分で
管理をしないといけない。



血圧計は、とりあえず買った。
パナソニック商品だから自社の電池くらい入れているだろうと思い込んで
しまったのが、失敗。
入ってなかった事に気がついたのは帰宅後。
もう出かけなくない。


仕方ないので母に帰りに買ってきてもらう事にした。

病院にいる時は気がつかないが、世間は暑い。
それが疲れを倍増させたのかもしれない。




体温計は、これにした。


こうして今年3回目の入院が終了した。

祖父には電話、母と叔父にはメールで退院の報告を入れた。

2012年5月24日木曜日

抗がん剤治療入院 4日目

吐き気で目を覚ます。

副作用なのかは、わからない。
頭が痛い感じもする。

正直、ガン宣告をされてからは睡眠は2時間おきに
目を覚ますようになった。
分割睡眠をしようとしているわけではない。

眠れているのかどうかわからない。

ただ、この日は吐き気と頭痛が強い感じがした。

検温に来た看護師に伝えた。
朝食はどうするか聞かれたが、念のために食べると言う
事でお願いをした。

食べられなければ残せばいいのだ。

案の定、食欲がなかったが、パンだけは食べた。

よくわからないが、便秘が起因しているのだろうか。

何とも言えない。


午前中は少し寝ていた。
いつもなら本を読んだり勉強をするのだが、やる気が起きなかった。

iPhoneで鳥越俊太郎さんの講演映像を見ていた。




鳥越さんも私と同じ大腸ガンだったそうだ。
遠隔転移もされていたそうで、テレビで拝見する限りは、かなり
お元気に見えます。




 自分が病気になると同じ病気の人に親近感をとても感じます。

 鳥越さんはステージⅣだったそうです。
 信じられませんね。

 正直、ガン=死 この公式が頭から離れないのですが、鳥越さんを
見ているとそんな事ないのだなと思わされます。

 午前中はそのように過ごし、吐き気も少し収まり、昼食をすませま
した。

 掃除のおばちゃんと他の患者さんの会話が聞こえてきたのですが、
今日は手術と緊急入院患者が多いそうです。
 医療の現場は大抵は忙しいという事は想像できますが、私と同じ
病室の人が併設している介護施設の部屋に移るそうです。
 病室も満室で大変なようです。外科病棟ですが、消化器科やら他の
病棟に移動する患者もいるそうです。


 私は入院した日はガラガラだったのですが、急に立て込んできたようです。


 繁忙期も閑散期もありませんからね。
 本当の事を言えば、消防署と警察と病院は暇な方が良いわけで。


 直感的に「明日、退院だろうな」と思いました。
 そんなに満杯な状況ならば、私のような患者を延長するわけがない。
 私よりも急を要する患者がたくさんいるはずだ。


 夕方近く、叔父が来た。
 異動になり、土日休みの部署ではなくなった為、平日に来る。
 そういえば、前回の入院時も平日に来た記憶がある。


 叔母や従兄弟が来ないところが微妙な親族関係を示している気もするが。

 テレビカードを1枚くれた。
 金額にして1、000円。


 明日退院するかもしれないので、使わないかもしれない。
 もっとも返金されるので心配はいらない。


 就寝時間が近づくにつれ、具合が良くなってきた。


 明日の血液検査で異常がなければ退院だ。










2012年5月23日水曜日

抗がん剤治療入院 3日目

投与2日目。
入院して3日目。

朝食は決まって牛乳が出る。

異変に気がついた。

飲むと異物が入っている感覚なのだ。
外を歩いていて虫が口の中に入って「ちょっと大きいな」という
気分と言えば、わかって頂けるだろうか?

飲むのを止めた。

これが副作用かと気づいた。

以降、食事で出る「冷たい物」は一切口にできなくなる。
口の中で温かくして飲み込めば良いのかもしれないが、面倒だ。

退院してから何日かは続く事になる。

水も冷たいと飲めない。






この水がお気に入りなのだが、買って暫く部屋に置いて大丈夫な
頃合いを見て飲むようにした。


ご親切な事に病院内で販売されている水は自販機も売店も冷やしていて
くれて手で持てないのだ。
なので、袋を持って自販機に買いに行くか、売店で袋に入れてもらうか
しないとダメだ。

主治医に報告すると何日かすると症状は消えるそうだが、水作業も
できなくなるなと思った。
冬が辛いというのは、こういう事なのだ。


何と書いてお伝えすれば良いのか。

冷たいペッドボトルを飲むと指が正座して立った時のピリピリに近い
感じがする。
歯を磨いてうがいする時、炭酸水でうがいをしている感じ。
(実際、私は炭酸飲料が嫌いで数回しか口にした事ないが)

確かに冬はたまらないだろう。
風が当たるたびにピリピリしていたのでは、外出したくなくなる。


だが、さほど他に目立った症状は起きずに1日を終える事ができた。

軽い吐き気はあるものの、ベッドでずっと下を向いて本を読んだり、
資格試験の勉強をしている。そのせいもあるのではないかと考えたり
する。

ここが難しいが、一概に薬の副作用と断定できないのだ。



















ちなみに、こちらの保湿剤を朝/風呂上がり/就寝前に手足に塗っている。

看護師に「売店に行く時も手袋はしてください」と言われたが、それは守ってない。

イメージ的にこれです。



アトピーがひどい時は、コットン手袋の上に軍手をして寝てました。
小学生の時ですね。

せっせと服用の記録を付け、就寝です。

と、言いたいですが、隣のベッドのおっさんのいびきで2時間おきに目を
覚ます事になります。

この人、昼間もいびきかいて寝てたのに。
恐らく、治療で疲れているのでしょうね。


2012年5月22日火曜日

抗がん剤治療入院 2日目

2日目、いよいよXELOX療法を開始である。

早朝に採血をして朝食を済ませ、回診を終え、
10:00から点滴を開始だ。

さすがに新人の看護師にやらせるわけにはいかないようで
主任の看護師とベテラン医師(お偉いさん)の二人でかなり
注意深く確認をしていた。

予定では2時間で点滴が終了。

昼までには終わるので「トイレ以外はベッドから離れないでください」と
だけ言われている。

もしかして抗がん剤治療を本人は軽く考えているかもしれない。

母も午前中にいたが、点滴をする前に帰宅をした。
いても構わないと言ったのが、見たくなかったのだろう。
私に握手を求めて帰って行った。

確かにガンに対して楽観的なのかもしれない。

祖母がガンになった時、同世代で人一倍元気な祖母の回復を信じていた。
ところが、手術を拒み、それがストレスだったのか入院してしまった。
結局は手術をする事なく、鬼籍に入った。

他の家族は知らないが、私は過信していたと思う。
裏を返すとそれは願いでもあったのだ。

自分のガンに関しても早期だろう、またはリンパ節転移がない、あっても
少しだろうと考えていた。
何故なら体が元気で動くし、そうあって欲しいという願望があったからだ。

ところが、現実はステージⅣに近く、再発に準じた治療を行わないといけない
状況なのだ。不幸中の幸いなのが、遠隔転移が見られないくらい。


話を点滴に戻そう。


開始して10分くらいしたが、特に何もない。
なのに主任の看護師は頻繁に私のところに来る。


40分くらい経過した頃から喉の違和感と点滴の箇所にごく軽いしびれが
起きた。
それでも我慢ができないかと言えば、我慢できる。

我慢できる/できない がポイントらしい。
退院するまで症状を報告する度に質問されるのだ。


予定通り、正午に点滴が完了。
一緒に打っていたビタミン剤のような点滴は引き続き行っている。


説明を受けていた割には、あっさりと点滴が終了した。


残った点滴も14:00くらいに終了。


文字を読むと目が痙攣を起こすが、医師と看護師の反応を見ると、
これは関係ないようだ。


さて、16:00から今後の外来の化学療法のオリエンテーションを
するから移動しなくてはいけない。

オリエンテーションの時間を待つ間に薬剤師が抗がん剤の説明に
来た。何度も説明してすり込ませる気のようだ。

まずDVDを見せられる。
散々説明された内容を映像で見せられている。
今後の外来の段取りも聞いた。

なるほど点滴中は売店に買い物しに行っても大丈夫らしい。
ノートPCの持ち込みもOKとの事。


あと、副作用の対策で手足に保湿剤を塗るそうだ。

何故なのかわからないが、塗ると対策になるそうで私も夜から塗る
事になる。
寝る時は綿の手袋と靴下を履いて寝るらしい。


説明を聞くと、制限事項が実に多い。

ただ、車で来院するのは構わないそうだ。


これだけの制限事項を守ると治療を受けながら会社勤めしてる人は
どうやって生活をしているのだろうか?
いくつかの制限事項は守ってないはずだ。


母が夕方になって登場。
私としては喉の違和感以外は何もない。


夕食をすませ、シャワーは今日NGらしいので体をタオルで拭いて
保湿剤を塗る。
アトピー性皮膚炎持ちだった私は薬を塗って寝る事に抵抗は感じない。
綿の手袋をつけて寝ていた時期も過去にはあった。


妙なところで経験がリンクするものだ。

夕食後から飲み薬も開始。
これを2週間続け、1週間止め、翌週に点滴を打ち、飲み始めるという
サイクルが半年も続くのだ。

この日を境に病室も慌ただしくなる。
6人部屋で私を含めて3人で静かで落ち着いていた部屋も入院患者が
増えてきた。

隣のベッドに来た男性もがん患者のようだが、いびきがうるさく、
2〜3日は悩みの種になる。

物事が動き始めたのを感じている。

ともかく私の体には抗がん剤が流れ始めた。

2012年5月21日月曜日

XELOX療法について

私が受ける化学療法の名称である。

簡単に書くと、3週間1セットで点滴と飲み薬を組み合わせて
服用していく。

点滴は3週間に1回、飲み薬は朝晩の食事後30分以内に服用する。
3週間の最後の1週間は休薬期間という事で飲まない。

初回の点滴は、入院、次回以降は外来にて投与する。

今回の入院はその初回入院にあたる。

ご存知の方もいるだろうが、抗がん剤はガン細胞だけでなく、正常な
細胞もダメージを当たる。
言ってしまえば、毒薬である。毒をもって毒を制すというわけだ。

副作用があるが、毛が抜ける事はなさそうだ。
母も心配して髪の毛があるうちに写真を撮っておけと言っていたくらいだ。

病院でも散々説明を受けたが、主な副作用は次のようなものがあるらしい。

・しびれ
・冷たいものを飲むと喉が締め付けられる感じがする
・熱
・吐き気/嘔吐
・下痢/便秘
・口内炎
・出血をすると止まらない

このような感じだろうか。

ただ、これが全部起きるとは限らないし、全然副作用が起きない人も
いるらしい。
何度も一度に全部説明されると、まるで全部起きるような気がしてゾッと
するが、よくよく考えてみれば「こういう恐れがある」というだけの話だ。

入院している時はナースコールで済むが、外来までの時は資料を渡されて
例えば熱が38度超えるようなら外来/急患に来てほしいと言われる。
近くの診療所には行かないようにしてほしいと言われる。

服用中に関しては、制限事項が多い。
手足に圧力をかけないようにする為に健康サンダルがダメ、力を入れてペン
を持ってはダメ、ギターを弾くのもダメなど。皮膚へのダメージを考慮して
直射日光がダメ、運動はダメなど。

夏でも長袖で手袋をして歩いてほしいと言われる。

女性ならアリだろうが、男性の私にとっては難しい。
猛暑に綿の白い手袋をして歩いている男性を見ると、どう思うだろうか?


あと私は意外だったのは、飲み忘れたからと言って2回分を1回で飲まない事だ。
飲み忘れたら私は1回とばしてしまうのだが、2回分を一度に飲む人がいるらしい。
症状に応じて処方されている薬を大量に飲むなんて信じられなかった。
既述しているが、毒薬なので2回分を服用する事は危険だと言う事は想像できる
だろう。

説明責任として既述しているだけだろうか。


外来に関しては、専用の部屋があり、そこで治療を受ける事になる。
これは、まだ経験してないので書けないが、後日お知らせする事にしたい。


あくまで経験談としてこのブログを更新したいのだ。

2012年5月20日日曜日

抗がん剤治療入院 1日目

GWが明けた。

今年に入って三回目の入院だ。

よくも悪くも要領を得てしまったのか当日の朝まで
荷造りなどの準備はしてない。

一人で準備して家を出た。

隣の家のおっさんが洗車していて水をかけられるが
謝りもしない。
近所の問題児なのだ。

アマチュア無線をしており、大きなアンテナを設置して
不快である。
ベランダの目の前にポールを立てられたり、ヘッドフォンに
音声が入ってきたりと私は迷惑している。
以前にも別の近所の家から「うるせー」と怒られているのを
耳にした。

盗聴しているわけでもないので、やめろとはさすがに言えないが
隣近所とのバランスを考えてもらいたいものだ。

さて。

病院に歩いて到着。
午前中に受付をする事になっている。

本当に慣れてしまったのだろう。

前回と前々回の入院初日に食事が出なかった反省を活かして
受付をする前に売店で菓子パンを買って軽く食事をすませた。


受付を完了。
前回よりも段取りが早い。


GW前まで入院していた病棟に到着。

病棟での受付も済ませ、病室に通される。
前回の退院する2日間くらいにいた部屋だ。
覚えている。


しまった。

買っておいたスリッパを忘れた。

外出中の母に後で持ってきてもらう。

本当に慣れてしまったのか、のっけから「今日は点滴しますか?」
と聞いてしまった。
すぐに着替える必要があるのか、シャワーを浴びようか自分での
予定をどうしようか考えながら聞いてしまった。


ここでも誤算。
昼食が出た。

しかもお粥ではなく、常食だった。

合流していた母と一緒に驚いた。
ただ、こちらの判断で勝手に常食にするよりは病院のあんばいを
見て対応した方がよいからとも思う。


着替える。


食事あり、点滴なしで1日目は全く自由だ。


夕方、主治医より術後の検査結果の再説明と抗がん剤治療の説明。


XELOX療法という抗がん剤治療を行う。
ゼローダという飲み薬と点滴を組み合わせて服用していく。

詳しい事は別のエントリーに譲るとして。

副作用の話と生存率の話を資料に基づいて説明された。

こう書いては怒られるだろうが、この主治医は多くを語らずなのか
忙しいからなのか、元の性格だからなのか普段は説明をしない。
聞けば説明するが、それも恐らく最小限度と思われる。


それを説明をかなりされたので驚いた。

抗がん剤治療は、手術と同様に同意書にサインをしなくては
いけない。

私の病状としては、多臓器への転移をしていても不思議ではない状況
なのにリンパ節転移にとどまっている珍しいケースだと言われた。
しかし、たちの悪いガンでもあるとも言われた。

完治は難しいのではないかと言う見解だった。


この状況からすると、「再発に準じた治療を行う」との事。
本来ならば、6ヶ月間の治療だそうが、経過を見て延長をする可能性が
あるとも言っていた。


冷房が効いた部屋に通されたからではないが、血の気が引いていた。


隣で聞いていた母も「お任せします」の一点張り。
心中穏やかでなかったと思う。
ステージⅣに限りなく近いステージⅢという事は母には言ってなかった。
ショックを受けてGWを過ごさせるのは気が引けた。
どうせ同じ説明するだろうと思っていたので、これで良いのだ。


この期に及んで往生際が悪いが、俺は本当に病気なのかと疑ってしまう。


説明を受けて1日目を終える。

明日の朝より投与を開始するのである。

2012年5月19日土曜日

がん患者のGW

会社員時代はGWが待ち遠しかった。
特に海外旅行の予定を入れていた時は楽しみだった。
あるいは、特に遠出の予定もないが、有給をつけて
長くダラダラ休んだりもしていた。

GWだろうが土日だろうが何も変化がない毎日を
過ごしているので、ありがたみは正直ない。

休み明けに入院する事がわかっているせいかなのか
リンパ節転移がわかってしまったからなのか。

何せ摘出箇所で28/47個もリンパ節転移があったのだ。

他の場所がどうなっているのか気になって仕方がない。


ランニングもできないし、食事制限もないと言いつつ
念のためにお粥で過ごしている。


今年ほどGWの恩恵を受けてないのは初めてなのではない
だろうか。


もったいない気がする。


とある人から言葉を頂いた。
大事にしたい。

今はもどかしいでしょうが、半分できて良かった。
7割できたらラッキー。

2012年5月18日金曜日

がん患者の退職



4月の入院前に週刊 東洋経済 2012年 5/5号 [雑誌]を購入した。

一昨年は母と祖母の病気の勉強の為に読んだが、まさか自分の為に
買う事になるとは思いもしなかった。

そこで気になったのが、がん患者の社会復帰で3割が退職をしてしまう
事。

こういうトピックもありました。
がんの診断を受けたんだけど、現在勤めている会社を辞めなければならないの?

せっかく手術して社会復帰してもこれでは本末転倒な気もする。
がんになったら、元の状態に復帰する事が目標のはず。

私は体調を崩す前に別の理由で退職していたが、恐らくこの状況で
あれば、辞めざるを得なかったかもしれない。

まず、通勤が厳しい。
特にラッシュ時の電車には乗れる自信がなく、抗がん剤治療中は免疫力が
落ちるから風邪でもうつされたら治りにくく場合によっては業務に支障が
出る。


自宅勤務という方法もあったろうが、業務内容を考えるに自宅で着手できる
業務には限界がある。
そうなると減給などが想定できる。自宅にいるだけなので減給されても無給
よりはマシかと思うが、会社側は面白くないだろう。


休職という手は零細企業で就業ルールがなかったと思うので無理だったと
思う。


治療には会社側の理解が必要なのだが、会社自体が存続が厳しいのに病気の
従業員を半年以上も留めておくのはないでしょうね。理解がある会社にいたら
別ですが、大半はそれどころではないはずです。
それに他の従業員の目線もあるでしょうし。


私は今回の自分の件があるまで抗がん剤治療が半年セットという事は知りません
でした。

つまり理解がないという事を自分で示してしまったいたわけですね。
自分も病気にならなかったら「あいつ休んでるのに給料(社会保険)出てるのか」
なんて思うかもしれません。


2人に1人がガンになると言われているくらいなのに周囲の理解が浸透している
ようには思えないですね。


今の自分には社会復帰の「復帰先」がない。

難しい問題だと思います。


2012年5月16日水曜日

退院後 初の外出

退院後、初の外出をした地元の駅までバスで行き、墓参りをして
祖父の家に行き、ショッピングモールに行くという今までの行動
範囲からすると、かなり狭いものだ。

母が同行してきた。
心配なのだろう。

まず墓参り。
兄と祖母が眠っている墓に行った。

正直、一昨年に祖母が亡くなるまで墓参りには行かない方だったと
思う。
祖母の死をきっかけに結婚して家族を残さないといけないなという
感情も持つようになったし、墓参りをすると気持ちがすっきりする。


帰りにカタツムリを見つけた。
まだGWにも入ってないのに。


祖父の家まで歩く。
普段なら10分くらいだが、ゆっくり歩いた。
それ以上に母が私よりも遅く歩いていた。
年齢的に歩けないのだろうか?
それとも患った息子の後ろ姿を焼き付けておきたかったのだろうか?

倍以上の時間をかけて祖父の家に着いたと思う。


途中で昔住んでいたマンションなどを見ながら歩いていたせいもある。

祖父は祖母が亡くなってからは一人暮らしだ。
歩いて5分くらいの所に長男夫婦(私の叔父)が住んでいるし、嫁(叔母)が
祖父の家に向かいで働いている。
ただ、祖父の家に顔を出さないらしいが。


耳の遠い祖父は会話をするのは大変だ。
加えて年寄り特有の頑固さもあるし、血のつながりのない叔母からすると
ダメなのだろう。
叔母もメニエール病を患っているそうだ。それに自分が中心でないとイヤな
正確だ。
つまり同じ性格同士でぶつかってしまうのだろう。
古い言い方かもしれないが、祖父の家に嫁入りしたのだから長男の嫁としての
線を越えないようにするべきだとは思う。

長男が結婚したから祖父母は二世帯住宅になるように改築をしたにも関わらず
叔父夫婦はマンションを買って家を出たり、祖母が病気で満足に歩けなくなっても
同居しようとか毎日面倒見ようとはしなかった。
それに叔母は祖母の葬儀の時にニコニコしていたのが印象的だった。

要するに問題児ですまないくらいの厄介者なのだ。

まあ、それは置いておいて。


「いくらか痩せたな」と祖父に言われた。
術後に会うのは考えてみれば初めてだった。


どこが悪かったんだと聞かれる。
「腸の方」とだけ答える。

なかなか答えられない。
未だに祖父には明確に「大腸がん」とは伝えてないのだ。


母は祖父の為に食事を作り始めた。

私は近くのショッピングモールでブラブラしようと思い、祖父の家を出る。

1駅移動する。

久々に電車に乗った。1ヶ月ぶりだろうか。

18歳で都内の大学に入ってから1ヶ月も電車に乗らないと言う事は
今までなかった。
正直、手術で繋ぎ合わせた患部を考えると電車に乗るのが怖かったが、
平日の昼間なので大丈夫だろうと思い、乗ってみた。


何て事もなく、普段通りだ。


何もかもが久々だ。
あいかわらずのガラガラのショッピングモール。

腸の病気をしたせいかお通じが近い。
到着して即トイレに直行。

本でも買おうと思ったが、これと言って興味を引く本がない。
今現在、仕事をしてないので無収入だ。
だが、昔「どんなに金がなくて書籍代だけは削るな。本にお金を
かけるのはバカバカしい事ではない。」と言われ、実践している。
母からは「無駄遣いするな」と言われるが、それもごもっとも。

母と合流。

帰りのバスの時間まで買い物とお茶をした。
GW明けに入院をするので100均で買い物。
退院する際、ついスリッパなどを捨ててしまうので入院するたびに
買い直しなのだ。
まさかリンパ節転移が多く、抗がん剤治療で入院するなんて思って
なかったので。

母とお茶をした。
デニーズが混んでいたからドトールに入った。
母はアイスコーヒーを飲んだが、私は刺激物は怖くて飲めないので
ケーキを単品で食べた。
かなりコーヒーは飲みたいが、夏以降まで封印するつもりでいる。
考えてみれば、母とお茶するなんて今までなかったなと。

バスの時間になり、帰宅。

家に着くと少し疲れる。
今日行った所は全て今まで車でスイスイ行っていた所ばかり。
簡単に行けるとわかっていて遠回りしているので疲れるのだ。


祖父に顔見せ、墓参りもできて気分的にはスッキリした1日だった。

2012年5月15日火曜日

退院後の生活〜激しい痛み

車の運転に懲りて極力外出をせずに自宅療養をしていた。

心配して電話をくれる祖父には大腸がんである事は言っていない。

2年前に祖母を胃がんで亡くし、娘である母も胃がんを患い、孫の
私が大腸がんと90歳の祖父に言えば、どれだけのショックを与えて
しまうかわからない。

隠し事は、いけない。
全てを言う事だけが優しさではない。

この板挟みです。


退院後4〜5日した後、昼食後に突然の腹痛に襲われました。


緊急入院した時の痛みに匹敵するくらいです。


手術をしたばかりなのに再発なのかという思いがありました。
歩くどころか立つ事もできません。

うずくまって1時間と少し。
痛みがなくなりました。


ゾッとしましたが、外来が来月あるので、それまで待とうと思いました。
元来の病院嫌いもありますが、退院したばかりで病院にまた行くのも気が
ひけるという思いもありました。


その夜、母に昼間に腹痛があった事を伝えました。

明日、必ず病院に行ってほしいと言われ、口論になりました。


私としては、この状況で一人で外を歩くのは怖いし、外来で待つ時間が
もったいない。1日平気で潰れるわけだから。
母としては少しでもおかしい点があれば、医師に相談するべきとの事。

母の言い分はわかるが、この体で歩いて行くのは私だし、外来で待つのも
私。
母は仕事に行くわけで、言葉悪く言えば、言うだけの立場だ。

私はそこに納得がいかずに口論になった。
母の意見が正しいのはわかるが、言うだけの立場は許せないのだ。


結局、次の日に外来に行った。
予約がないので、待つ事はよくわかっていた。

言うほど待たずに診察に呼ばれた。


私の痛む箇所は、腸の場所ではないらしかった。
恐らくは術後、傷口付近に癒着してしまったのではないかという見解。

ただ、1回事象が起きただけでは何とも言えないとの事。
続くようならば、また外来に来てほしいとの事。



しかし、腹痛よりも重い話を外来で聞く事になった。

検査結果が出たので話を聞いた。


ありえないくらいリンパ節転移があった。
摘出した47カ所のうち28カ所に転移が見られたそうだ。
10カ所弱であろうと術前に医師は思っていたそうだが、予想を大きく
超えていたそうだ。

私も血の気が引いた。


ステージⅢb だ。
(リンパ節転移4カ所以上)

がんの手術は広めに摘出する。
がんでない部分も取る事になる。
私の場合、広めに摘出したギリギリの箇所までガンがあったそうだ。

限りなくステージⅣに近いそうだ。

ただ遠隔転移(肺や肝臓など)が見られないそうだ。


抗がん剤の治療をする事になった。
5月の中旬の入院予定を1週早めた。

抗がん剤の副作用を見る為の入院だ。


治るのか治らないのかは聞かなかった。
愚問に違いない。
治ると聞いて治らなければ、医師を恨むだろう。
治らないと聞いて治れば、医師は信用できないと言うだろう。


「予備知識を入れておいてください」と抗がん剤の冊子を渡された。


帰宅した。

手術して1〜2ヶ月で社会復帰の予定は大幅に後ろに倒れる事になって
しまった。

・・・そう来るか。
これが感想だった。

2012年5月14日月曜日

退院後の生活〜車の運転

退院後は、思ったよりも体が動く気がする。

腹腔鏡手術だからなのか。

開腹手術をした母の姿を想像していたので外を歩く事は
とてもじゃないが、できないであろうと思っていた。

1日1回は家の周辺を散歩するようにしてるし、割と動く。

退院前には「少しずつ慣らしていってください」という事を
言われていたが、これなら日常生活に戻れるのではないかと
思う。

腹腔鏡手術が事務職であれば術後1ヶ月ほどが目安で社会
復帰できるというメリットがうたわれているらしい。

うなづける。

確かにランニングや筋トレなどは無理かなという感じはするが
散歩などは痛みは、さほど無い。

便は、意識的出すようにしている事もあるが、軟便である。
私は元から牛乳を飲むと腹が下るので、それも組み合わせている。


と、ここで車の運転もできるのではないかと思ってしまった。
退院後2日目の事である。

私の住んでいる地域は車がないと不便だ。
一応、関東首都圏に暮らしてはいるが、最寄りのコンビニまで
20〜30分歩く事になる。
散歩コースには適しているが、急な買い物には困る。


車を運転してコンビニに行ってみた。
結構、選択は失敗だったかもしれない。

お腹の痛みが完全に消えないうちはダメだ。

まず運転席に乗り込む時にお腹に力が入る。
次にシートベルトでもお腹に圧力がかかる。
さらに車が動くだけ腹圧がかかる。

そして一番大事だが、入院生活が慣れてしまった感覚は
通常生活とテンポとスピードが違う事を感じた。

運転は、かなり怖かった。

帰宅したら妙に疲れた。

今の私は、必要最低限の生活をするに足りる体力が回復
しているに過ぎない事を思い知らされた。


これに懲りて車に関しては週に一度エンジンをふかす程度に
している。
本当に事故に繋がりかねない。







2012年5月13日日曜日

入院11日目 退院

10日目を端折りますが、11日目にして退院になりました。

退院は前日に言われるものかと思っていましたが、朝に主治医が
来て「血液検査に問題がなかったので退院ね」との事。

急に言われたので清算の準備もできてない。

母も仕事なので迎え無しで帰り準備をする。

まあ、歩いて10分ちょいの距離なのでいいだろう。
天気が悪いのが、気になるくらい。

90歳の祖父が車椅子で来た。


迎えに来たそうだ。
事前に電話が来れば断ったのが、急に来たので断るに断れない。
車検を終えたばかりの車で一人で運転をして来ているので元気では
あるのだ。


90歳の祖父に迎えにきてもらうのは申し訳なさと情けなさがあるが
ありがたくもあるので乗って帰りました。

傷口には、車でかかる重力がキツかったかもしれません。


母は、自分が迎えに行けない事と祖父に来てもらった事に自責の念を
感じていたようですが、やむを得ない場合でもあるので気にしないで
もらいたいものです。


やっと帰宅できました。

家に帰ってホッとしたのか、昼ご飯を少し食べ過ぎてお腹が痛くなり
ました。

退院後は、この食事量の調整に何日か苦労する事になります。

次回の診察はGW後の外来になり、検査結果を聞く事になります。
主治医の話によると、入院がもう一度ありそうな感じです。


やはり、家が落ち着きます。








2012年5月12日土曜日

入院9日目 部屋移動



欲が出てきたと言うのは元気になってきた証拠なのか。

病室に対する不満が我慢できなくなってきた。

におい。

私は大腸がんなので、恐らくは同じような病状の人たちのいる
病室にいると思う。

排泄機能がうまくいかない人たちが集まる。
人口肛門とかの人たちであろう。聞いてないからわからない。

一度ロッカーを使うのに隣のベッドの人の前を通らざるを得ずに
通った時、そういう器具を目撃した。

自分も病気なので仕方が無いとはわかりつつも他人のにおいを
四六時中かかがされるのは我慢に限界がある。
入院当初は、左隣だけだったから割り切るようにしてたが、術後に
戻った部屋に両隣が同じ状況で窓を開けて私が風下になるので常に
においに挟まれている。

まして食事も解禁になっている。

大変申し訳ないのだが、たまらなくなってきている。


トイレから戻る時に会った看護師に相談した。
その3〜4時間後、部屋を移動する事になった。

窓際で隣のベッドも空いており、リラックスできる部屋だ。

ホッとした。

強調しておきたいが、においを放つ人が悪い訳ではない。
自ら好んで病気になる人間はいないだろう。まして入院や手術したい
なんて人間は、さらにいないはず。
入院とは共同生活でもある。
シャワー室の利用時間、食事の時間、消灯時間、部屋のマナーなど。
病気だから守れないのは仕方が無いという事には、よほどの事でない
限りは許されない。


だからと言って我慢できない点も出てきてしまうのも事実。


不満を上手に解消していかないといけないですね。
誰も悪くない。
でも角が立つので、ここだけの話でした。

2012年5月11日金曜日

入院8日目 点滴はずれる

実は人生で1週間を超えて入院した事がない。
ここからは初めての体験だ。

今日は点滴が取れたのだ。

それに伴い、私の体に刺さっていた管がいろいろ取れた。

楽だ。

点滴をしているとトイレに行くにも一苦労だった。
外科病棟のトイレは個室が大きい感じだが、消化器科の
トイレは狭かった。
点滴をして入ると、相当狭い。

緊急入院の時に貧血で歩けなくなったが、今思うと閉所恐怖症でも
あったのではないかとも思ってしまう。個室に入っている時から
おかしな気分だった。

点滴のスタンドを掴んでのトイレは大変だ。
お小水もカップに入れて量を量る。

点滴が取れる事により負担が軽減した。

食事が出るよりも点滴が取れる方が嬉しかったかもしれない。

体には何も刺さってない。

歩くスピードも早くなった気がする。


おかしな事に気がついた。

点滴をつけているか否かで周りの反応が違うのだ。
特に外来の病棟を歩いていると違う。

点滴のスタンドを掴んでいると、周囲の人が道を開けてくれるし、
エレベーターも先に譲ってくれる。

これが点滴のスタンドがないと違うのだ。
スタンドがないから傷口がないわけもないし。

人にぶつかると危ない状況に変わりはないのだ。


そういう事にも気づける余裕が出てきたと言う事か。

















2012年5月10日木曜日

入院7日目 食事が出る

歩けるようになった次は、食事である。

食事が出た。
おかゆと魚が出た。

入院以来、点滴だけで食事がないのは再三ブログで書いている。

ただ、消化の問題があるから完食しないで少しずつ様子を見て
いきましょうという事だった。

半分くらいで終わりにした。
食欲としては完食したかったが、後々の事を考えるとここは我慢。

満足は正直なかった。
食事は健康な時に美味しいものを楽しく食べてこそだと感じた。

その後、散歩をする。
フロアをグルグルまわる。

歩けるが、あまり過度にやるとお腹が痛くなる。
痛くなったらベッドに戻って休憩。

テレビなどを見る。

昨日からシャワーも浴びている。

回復を実感できる。

開腹手術であったら回復はもう少し遅かったのだろうか。


食事が始まったが、大腸を手術したせいか便意をすぐにもよおす。
そして食べた後のお腹の音がスゴいのである。

なるほど。

確かに一気に食べたら負担がかかるだろうなという感じだ。

日々回復。








2012年5月9日水曜日

入院6日目 歩く

目が覚めると、何か今日は歩けそうな気がした。
いわゆる根拠のない自信というやつだ。

昨日5歩しか歩けないと思っていたが、5歩歩けたのだから
1日経って回復している今日なら歩けるということか。

それとも回復室にいるのが不快になってきたからか。


ともかく看護師さんについてもらい、歩いてみた。
右の脇腹に貼った湿布が効いたのか痛みが軽くなっていた。

ベッドを起こしてみる。

看護師さんから立ち方を改めてレクチャーしてもらい、立てた。
そして看護師さんにつかまる事もなく、歩き始めた。

とりあえずこの部屋から出て歩くのが目標。

部屋を出られた。

そしてフロアを半周してみる。

何とか点滴のスタンドをつかみながら歩けた。


自転車の補助輪を取った時、竹馬に乗った時、同じような感覚
だった。
動き出したら動けるのだ。

こんなに歩くつもりもなかったくらい歩けた。

嬉しいというよりもホッとした。
これで回復・退院が見えてきたからだ。


部屋に戻り、尿管などを外してもらった。
少し動きやすくなった。
トイレも一人だし、シャワーも浴びる事ができる。

尿管を外す時、恐怖があったが、案外と簡単に抜けるものであった。
女性の方に外してもらっている恥ずかしさなどなくなっていた。
しかし、あれはどうやって入れているのだろうか。


その後、トイレにお小水に行ったら、空気が入ったホースみたいに
なっているのが我ながら笑えてしまった。
ゴボボ・・・と。

さて、元の病室に戻る。

とりあえずシャワーの予約をした。

その後、ノートPCを開いた。
案外、できる。

歩く事はキツくないが、寝起きの際に腹痛があるのがキツかった。
これは、手術により腹筋に傷がついている為と思われる。

腹腔鏡手術はダメージが少ないと言うが、その通りなのか。
私の母は開腹手術だったので回復具合が異なる感じがする。
もっとも病状も年齢も違うので何とも言えないが。

ちなみにガンの進行度で言えば、私の方が進んでいるのだが。
こんな形で親を追い越すのは親不孝だと思う。

ともかく以来、朝と昼と夕方に歩く事を決めた。
朝食前、昼食後、夕食後に決めた。


再び歩けるようになった。



























2012年5月8日火曜日

入院5日目 5歩しか歩けない

手術して1日経った。

体に力が入らない。

でも1日同じ場所で寝ているので不安になり、両腕を交互に
上に上げてみる。
とりあえず、動く事に安心した。

手術をすると言うのは体中の機能が奪われるイメージがあり、
動かないのではないかと不安になっていた。

お尻をかいた。
気持ちよかった。
と言う事は、かゆみを我慢するのが辛かったのだ。

手が届かない上に雑菌が入らない為であろうが、ビニールを
かけられていて蒸れる。

ただ、1日経って体力が少し回復した気がする。

それでもドラクエで言えば、文字の色が緑の状態なのだ。

とにかく右の脇腹付近が動くと痛い。

今日から歩かないといけない。
歩かないと回復に近づかない。

母の術後の様子を見ていて知っていた。


信じられないが、起きられない。
これで歩けと言うのか?
立てば、何とかなるものか?

看護師に支えられ、どうにかベッドから立った。

信じられない。
立っていられない。


熱が下がらなかったのもあるが、フラフラするのだ。
とにかく部屋を出て廊下を歩きまくらなければならない。


部屋の出入り口付近まで行ったが、歩くどころか右脇腹が
痛くて立っていられない。
ギブアップしてベッドに戻った。
それでも痛くて体を寝かす事すらできない。

立っていられない。
寝ていられない。

どうすればいいのだ。

この日の徒歩数は、5歩。
恐らく赤ん坊の頃以来であろう。


ようやくにベッドに体を寝かす事ができた。
しばらくして看護師から元の病室に戻るのは1日後ろに倒す
事になった。

ショックだった。

歩けると思っていた。
予想以上に歩けなかった。
それ以前に寝起きできないのだ。

本当に治るのか不安になった。


本当にやる事がない。

食事はないし、トイレも管をさされているので行く必要がない。
ネットはできないし、本も読めない。
歯磨きと検温しかやる事がない。


午後になって主治医が来た。
私があまりにも右の脇腹が痛いので、首を傾げる。
腸の手術をしたのに腸がないところが痛いのだ。

看護師と話を重ねた結果、手術中の体勢で全体重がかかった事が
わかり、湿布を貼ってもらう事にした。

ただ、これで歩けなかったかどうかは言い切る自信がない。


また、時間の経過もわからないまま1日が終わる。

この入院で一番ナースコールを押した日だったと記憶してる。

意志だけでは、歩けない事を痛感。

2012年5月7日月曜日

入院4日目 手術

「よく眠れましたか?」

よく聞かれる。
まさか隣の急患の人がうるさくて眠れませんでしたとは
言えないので「はい」と言うしかない。

あまり緊張してない。

浣腸も朝打たれ、腸の中は可能な限りにきれいになっているはずだ。


手術する側は、さほど緊張感がない。
全くないと言えばウソになるが、今まで手術が終わるのを待つ側だった
私が手術を受ける側にまわってみて感じた事だ。

母が何度も手術をしている。
胆石に始まり、子宮筋腫に胃がん。
3回も開腹手術をしているのだ。

一度目の胆石は、小学生だった事もあるし、父親がまだいたのであまり
認識がなかった。術後にICUで眠る母を初めて事の重大さを知ったほどだ。
あまり記憶にないが、小学生だった事で立ち会ってないはずだ。

ちなみにこの時の病院で私は今回手術を受ける。
近所だからという理由だが、因果なものだ。

二度目は、子宮筋腫の手術。
この時が最も辛かった。
父もいなく、私もキツいを仕事をしながら立ち会ったのだ。
追いつめられている気分だった。
昔とは言え、一度切った箇所を切るわけだ。上記の病院とは別の病院だ。
癌とかあったらどうしよう?手術に失敗したらどうしよう?母の体力が
追いつかずにもしもの事があったらどうしよう?
そういう思いが頭の中をグルグルしていた。

祖父母と叔父が来てくれた。
高齢の祖父母は緊張感が半端でなかったはず。
特に祖母が術後の母を「この子ばかりどうして」と泣く姿に初めて祖母の
母性を感じたのが印象的だった。当たり前だが、この人たち(母と祖母)は
親子なんだなと。

私も寝ている母の前で一人になった時、泣いた。
何故、母のような生真面目な人間がこんなに管に繋がれて苦しまないと
いけないと思っていた。母よりもズルくて元気でしょうがない奴が世の中に
たくさんいる。そんなもんなのかと。

実は一度目と二度目の間に心臓で入院をしている手術に至らず退院できたが、
入院はこれで3度している事になる。

もっとも幼少期にも入院していた事があるそうだが。


3度目は、胃がんだ。
胃がんの連絡を受けた時のショックはあったものの、手術自体はあまり緊張感が
なかった。子宮筋腫の時に比べると慣れてしまったのか、覚悟ができていたのか
わからない。
一人で立ち会った。
祖父母には来なくて良いと言っていたし、叔父は来れないような事を言っていた。

立ち会いと言ってもソファーに座って待っているだけ。
何もする事がない。

結局、祖父母は落ち着かないと言って病院に来て叔父も病院に来た。

私だけでなく、祖父母と叔父も子宮筋腫の時よりも慣れた感じだった。

ただ、手術以外でトラブルは起きた。

祖父が心労なのか頭痛を訴えてきた。
叔父は、叔母から叔母の父の訃報が入った。

病院で熱を出したので看護師に祖父の事を言ったが、かかりつけの方が良い
という事になり、叔父の車でかかりつけの病院に祖母も一緒に行った。近いのが
幸いだ。祖父母に関しては、そのまま帰宅する事にした。

叔父に関しては、祖父母を送った後に帰宅する事にしてもらった。

残ったのは私一人。

少しの間、慌ただしかった。

外で雨降る様子を見ながら考え事をして時間が経つのを待っていた。
考える事は親孝行してこなかったなとか退院後はどうしようかなとか母の事だ。

だが、少ししたら帰宅したはずの祖父母が来た。
やはり落ち着かないとの事でタクシーを呼んで駆けつけたのだ。息を切らして
来てる。
1時間もしないうちに叔父も戻ってきた。祖父母はともかく、叔父の場合は葬儀の
準備などがあるはずなのに来てくれた。やはり肉親の方が心配なのだろうか。

手術が終わって母の麻酔が切れ、ベッドで運ばれてきた。
足腰が立たないはずの祖母がソファーが直立不動になった。
私は驚いた。杖をつかないと歩けないはずなのに。

子宮筋腫の時は涙していた祖母も今回は泣かずに帰り際、私に振り向いて
「うまくいったな」
と言って帰って行った。

叔父も暫くして帰宅した。

私も母と少し話ができたので、それから晩ご飯を外食して帰宅した。


・・・かなり話がそれたが、これが私の手術を待つ体験だ。


今回は立場が逆になる。
叔父は仕事で来れないし、祖母は亡くなり、祖父は来るとも来ないとも連絡が
ない。
つまり、母一人。
この件に関して母は憤っていた。家族が手術を受けるのに叔父が駆けつけられない
とは何事だと。私が入院する前から。


時間になった。
朝一番の手術らしい。


歩いて手術室に行った。


術衣に着替えている。


よくビートルズが流れているなんて聞くが、私の病院はヒーリングミュージック
だった。


さすがに手術室の扉をくぐると緊張してきた。


テレビでよく見る手術台と照明がある。


麻酔医の女性がいた。
私が説明を受けた麻酔医は男性だったのだが、説明する人と実際にやる人は
違うものなのだろうか?都合が悪くなっただけか?


まあ、いい。


背中に麻酔を打たれる。


「チクッとしますよ」
「もうすぐ眠くなりますからね」


この言葉が最後で意識がなくなる。




目が覚めた。
夢を見たとかそういうのはない。
意識がはっきりしない。

左側に医師らしき人たちが立っている。
そのうちの真面目そうな人が「手術が終わりましたよ」と言って
部屋から出て行った。

「ありがとうございます」

その言葉が術後の私の最初の言葉だった。
割とはっきりと話す事ができる。口が動かないと思っていたが、
寝起きよりもはっきりしてるかもしれない。

来れないはずの叔父が見えた。
「あれ?」
大きな声が出せた。

「よく頑張ったな」と言われた。
その後ろには祖父がいた。

右側に母が涙目で立っていた。
「よく頑張ったね」と言われた。
恐らく母からそんな事を言われたのは初めてだ。
通信簿で5を取っても大学に合格しても会社に入社しても言われた事が
ない。所帯でも持って孫でも抱かせれば、同じ事を言われるのだろうか?
怒られてばかりで褒められた事がほとんどない。
そんな母からの言葉だった。

思ったよりも喋る事ができる。
もっとダメなのかと思っていた。

ただ、体は全然動かなかった。
力が入らない。手足は動かせるが、腹部が全く力が入らない。
右の脇腹が痛い。
後で知るのだが、これは病気と関係のない痛みなのだ。
手術中の体勢で全体重がかかっていた為らしい。

いわゆる患部も傷口も痛くない。

手術は、あっけなかった。
私としては意識がないうちに終わっているのだ。


この日は、病室に戻れず、回復室という部屋で一晩を明かす事になる。
ベッドから動けないので時間の流れが全くわからない。
廊下から聞こえる人の会話などで判断するしかなかった。


今回の入院で最もキツい2日間の1日目が終わる。

2012年5月6日日曜日

入院3日目 手術前日

3日も入院しているのに何もない。

手術の2日前までは入院する決まりらしいが、1日余分だったのではないか。

本とPCを持ち込まなければ暇過ぎるところだった。
壊れてなければiPadにしたかった。

点滴に繋がれて食事も出ずに臓器を切り取られるのを待つ。
考えてみれば、何と恐ろしい事か。


前日という事で除毛がある。
本当に初めての経験だ。


手術は朝やるので、前日の夜に除毛をするのかと思っていたら昼にやると
看護師さんが来た。
初対面である。

除毛は自分でやるのかと思っていたら看護師さんが作業すると聞いて驚いた。
数分前に会ったばかりの女性に体毛を剃られるのだ。

背中とへその周りを剃られた。
バリカンで剃り、仕上げの確認は2人の看護師でダブルチェックをする。

恥ずかしかったが、そんなのも明日になれば何とも思えなくなる。


夜に下剤を1錠飲む。

明日の朝には浣腸をされるらしい。

できる限り腸の中をきれいにするためだ。


隣のベッドに新しい人が来た。
老人だ。

急患で入院したようだ。

鼻に管を入れられているのだろうか。
カーテン越しに叫び声が聞こえてくる。


手術前夜だから緊張して眠れないという事態は
なくなった。
隣からの叫び声で眠れずに朝を迎える事になる。

母は胃がん手術前夜は睡眠剤をもらったそうだが、
私は必要なかった。隣でカーテン越しに騒いでいて
眠れるわけがない。

どっちみち手術は麻酔を打たれて意識がない。


入院して暫く放置して肝心の手術前夜がバタバタ
になってしまった。















2012年5月5日土曜日

入院2日目

まだ時系列的に更新時点と追いついてない。

入院2日目のこと。

特に何もなし。
以上。

と言いたくなるくらい何もない。
検査もなければ、食事もない。


手術自体は4日目にある。


それまでは待機と言うのが主治医からの言葉。

あとは大腸の手術なので腸の中を奇麗にすると言う
意味で食事をとらずに点滴で直前に下剤を飲まされるのだ。


前日の主治医からの手術説明を書き忘れたので、書こう。


大腸の図は、wikiがありますが、これまでの7〜8あたりの
S字結腸という部分を切除するとの事。

遠隔転移は今のところ確認できないものの、恐らくはリンパ節転移
があるので、その場合はリンパ節ごと切除する。

ステージで言えば、恐らくはステージ3(リンパ節転移が見られる)である。

他にもガンの種みたいなものが肺などに流れている可能性も考えられる。
目視確認は当然できず、顕微鏡レベルでも確認できないかもしれない。
今回のリンパ節転移が確認でき、必要があれば抗がん剤での治療を術後に
行うという方針だ。

大腸がんは、外来で以前聞かれた腹腔鏡手術で行う事になったが、その後
異常が見られる場合は開腹手術になるし、術後の検査でガンが見られる場合は
再度手術を行うとの事だった。


がん手術をした事ある方、あるいは周囲で手術を受けた事のある方は
おわかりだろうが、がん手術自体は切り取って終わるが、病気としては
手術後に始まると言って過言ではない。
術後の検査で正式にガンのステージがわかる。いわゆる生存率も言われる。


改めて私の病状は「初期だったんだ。助かったねー」というレベルではない
事が実感でき、血の気がひいた。
それよりも「ガン患者」という事も強く認識させられた気がする。


それだけ癌は自覚症状がない。


手術と輸血の承諾書にサインをした。



2012年5月4日金曜日

入院初日

入院当日の朝がきた。

特にいつも通りにご飯を食べて「梅ちゃん先生」を見た。
母の心遣いでケーキを買ってきてくれていて食べました。

暫くは食べられない事が予想されるので。

もっと予想されるのが風呂に入れない事。
なので、朝風呂に入りました。


10:00くらいに手続きをする為に30分くらい前に
家を出て桜を見ながらのんびりと行きました。


15分くらいで到着してバイクで先に来ていた母と合流。


手続きをする。


外科の病棟に通される。
いろいろテレビカードなどの説明を受ける。


放置。
放置。
放置。
放置。


あれ?

私は、ガンの切除手術に来たのではないのか?


病室に通されてから何も言われない。


暇すぎる。


まだ着替えすらしてないのだ。


看護師が来た。
これから麻酔医の説明があるとの事。

急である。

手術の説明すら受けてないのだ。

麻酔の説明と了承があるので、承諾書にサインをするのだ。


私の場合は、局所麻酔と全身麻酔をするらしい。
副作用を伴う場合があるので了承頂きたいとの事。

いいえ、とも言えないので了承のサインを書く。

歯が抜けるとか震えが来るとかあるらしい。


後日改めて書くが、私の場合は熱が出る事になる。


病室に戻り、点滴を打つ事になった。
その前に着替えさせてもらった。
看護師さんも私が来た格好そのままでベッドに寝ると思ったのだろうか?


点滴に繋がれた。

昼食の時間なのだが、私の分がない。両隣のベッドからは食べる音が聞こえる。
午前中に来いと言われ、手続きをして食事が出ないのか?


初めてのナースコールをして聞いてみたら、食事禁止の飲水可との事。
それは麻酔よりも先に言うべきだろう。


この点滴が食事の代わりらしい。


入院中、これだけは絶望だった(笑)


いったん荷物を取りに帰った母も再度病院に来た。


検査もないし、問診もない。

看護師さんから再度入院のスケジュールをざっくり聞いた程度。

入浴は可能だったが、朝入ってきたので「ま、いいか」という事で
風呂にも入らずに一晩を明かした。


入院初日は、こんなもんです。
自分が本当に病人なのか疑わしくなるほど元気でした。


これが、ガンの怖さ。


















































2012年5月3日木曜日

入院準備

外来の帰りに入院の予約をした。

4月の半ばに入院をする事が決まった。


それと同時に周囲にいろいろ連絡をしないといけない。

本当にいろいろキャンセルをした。
周りに迷惑をかけてしまった。
不可抗力とは言え、全部許してもらえた。

許してもらうから人は罪を感じるという事を大学で教わった事が
ある。


いつまでも自責の念にかられていては、いけない。
許してもらった以上の状況でカムバックをしてやると誓った。


入院の準備をしないといけない。
前回は緊急入院で有無を言わさずだったので何も準備ができていなかった。

今回は本を買ってやろうとかPC持って行こうとか半ば合宿気分で準備をする
事ができた。


退院してから実は家で水場の改築工事があったのだ。
風呂場と洗面所が新しくなるのだ。

仕事持ちの母は大変だったと思う。
私も下剤を飲んでいたので職人に気を使いつつ過ごしていた。

工事期間中は入浴ができないので祖父の家に母と一緒に入りに行っていた。
祖父に病気の事は言ってない。言えない。
祖父から言わせれば「たかが貧血で大げさだ。過保護だ。」と母に言って
叱っていたそうなのだ。

母も私も「ただの」貧血ならば、同感である。
祖父に事実を言ってない以上は仕方のない事だ。


工事も終わり、新しい風呂に入る事になった。


母が言うには、新しい風呂に入ると長生きをすると言うので私に一番先に
入ってほしいとの事。
私からすれば、看病をして祖父の面倒を見て仕事しながら工事に立ち会っていた
母が苦労を報うべきではないかと思い、お互いに譲り合っていた。


だが、母の言う事を受け入れた。

貧血が起きるかもしれないので長風呂できなかったが、気持ちよいものだ。


ブログを更新中の現在で療養中の私には一番の楽しみになっている。


さて、そうして入院の当日を迎える事になる。


















2012年5月2日水曜日

外科への引き継ぎ

退院後、何度か消化器科と外科に外来で行った。

造血剤を飲んでいるとは言え、貧血を起こす可能性があるから
車の運転は最低限に留める事と言われていた。
なので、車で行けば数分の距離を歩いて行った。

どちらが体に良いのかわからないものだ。

2度、消化器科に足を運んだ。
普通の会社なら大した話ではない。
入院時と同じような話をされ、次に行った時は外科に細かく話しておいた
というだけである。

普通の会社なら「1度ですませろ」と言われるか厳しい上司なら「会議する
必要がないからメールか何かですませろ」と言われるような内容であった。


外科に行った。

消化器科から細かく説明したと聞いていたが、信用してなかった。
わざわざ一人一人の患者の細かい状況、しかも面識の無い患者の細かい状況を
把握しているとは思えない。


案の定、行ったら初めてカルテを見るような顔をしていた。
聞いていたけど、忘れてしまったのかもしれない。


いずれにせよ「伝わってない」と患者側からは判断せざるを得ない状況だった。


外科医は愛想の無い医者で他の闘病記などで見られる「頑張りましょうね」と
言うような雰囲気を漂わせていない。

ガンがどこにあるかの説明と手術の話をされた。

手術は、開腹手術と腹腔鏡手術のどちらにするかであった。


ガンも手術も初めての私には、わからないので答えようが無い。
完治して再発しなくて天寿を全うできれば、どちらでも構わないのだ。
体に傷が残ろうと生きていれば、どちらでも良い。
いや、医師としてそうなる選択肢を提示して欲しいのだ。


結局、お任せするという答えをした。
本音だった。


腹を切るか切らないかの二者択一なのだが、どちらでもいい。
ただ、生きるか死ぬかならば、生きるを選択する。


部屋を出て同行してくれた母と話をしたら、母は腹腔鏡手術を
知っていたようだ。切らずに穴を開けて内視鏡で切除していく方法らしい。


母は開腹手術をしているが、その時に医師から話を聞いた事があるらしい。
最新の手法であるが、切って開いてみないとわからない場合もあり、何とも
言えないそうだ。
だから医師の前で意見は控えていたそうだ。


繰り返すが、本当にどちらでも構わない。
治るか/治らないか、それが問題なのだ。


もっとも医師の立場としては、患者側の要望を聞かなかったと言う流れに
しない為に聞いただけかもしれない。


ともかく患者は委ねるしかない。





















2012年5月1日火曜日

宣告「大腸がん」

非常に珍しいが、大腸がんである事に間違いない。

医師の言葉だった。

血の気が引いた。

もっと血の気が引いたのは、いわゆる初期ではなく進行性で
ある事だった。


手術が必要であるとの事。


不思議なもんで母の顔が真っ先に浮かんだ。
申し訳ないという気持ちでいっぱいになった。

私は兄を亡くしている。
父は別居している。

家族離散状態で2人暮らしをしている。
喧嘩が多いが、それなりに支え合ってここまで来た。

母も2年前に胃がんを患い手術した。
祖母も母と同じ日に胃がんを宣告され、何もできずに鬼籍に入った。

遺伝子か?ストレスか?

原因は医師にもわからないとの事。


大腸がんというのは女性に多く、30代の男性で患うケースは非常に
稀であるとの事。


医師に肩をポンと叩かれ、病室に戻った。
午前中と違い、一人で歩けた。


どうしようという気持ちで悶々とした。

とりあえず母にはメールをした。
仕事をしているので今日は病院に行けないと知ったいたので来ないと
思っていたが、夜に来た。


来るまでに私は一人ベッドで泣いていた。
俺は人生で何を残してきたんだろう?
俺がいなくなったら、年老いていく母は誰が面倒を見るんだ?
もっといい事があってもいいだろう。
そういう気持ちが悶々としていた。


母が来て、ロビーで改めて病気を報告した。
覚悟はしていたとの事。

家売ってでも仕事辞めてでも暮らして行こうと言われた。
いい歳して親の前で泣いた。
そういう言葉が来るのがわかっていたからだ。
そういう親だと知っていたから。

親が帰った後、ベッドで悶々としていたが、気を紛らわす為に
電子書籍を購入した。
消灯時間を過ぎているので、本は読めない。


電子書籍によれば、人間は考えている事が自律神経に伝わり、
本当にその事柄が起きてしまうとの事。
であれば、治療して生き延びる事を誓う事にした。

次の日。
残っていた検査を終え、母と医師の元へ行き、改めて病状の説明を
受けた。

社会復帰は問題ないとの事。
検査した中では遠隔転移が見られないとの事だった。
(ただリンパ節についてわからないとの事)


その後、昼に退院して帰宅した。


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